1973-07-18 第71回国会 衆議院 法務委員会 第43号
○小林(進)委員 時間もありませんので結論を急ぎますけれども、このブーゲンビル島の吉池軍曹事件の問題を私が取り上げることになりましたら、方々から手紙が参りまして、裁判ですから、あなたのほうの証言に対しては、うそだ、あれは食糧を受領に行って、その食糧を持って逃げたといっても、あの状況では食糧なんか受領に行ける状況になかったし、おれをひとつ証人に呼んでくれ、上京して何でも言いますという人たちがたくさんおります
○小林(進)委員 時間もありませんので結論を急ぎますけれども、このブーゲンビル島の吉池軍曹事件の問題を私が取り上げることになりましたら、方々から手紙が参りまして、裁判ですから、あなたのほうの証言に対しては、うそだ、あれは食糧を受領に行って、その食糧を持って逃げたといっても、あの状況では食糧なんか受領に行ける状況になかったし、おれをひとつ証人に呼んでくれ、上京して何でも言いますという人たちがたくさんおります
吉池軍曹に始まって吉池軍曹に返るということにもなりますけれども、ブーゲンビル島で先ほどの神田軍司令官も言われたというお話もございました。神田司令官はブーゲンビル島における最高の司令官であります。敵を前にして四千名の軍が四百名に減ってしまった。マラリアでやられ、熱帯熱でやられ、そして飢えに泣いた、しかも終戦直前の八月十二日です。
次に花園先生にお伺いをいたしたいと思うのでございますが、先生は悲惨な戦地において、特にブーゲンビル島において直接吉池軍曹の問題にも関連をされておりまするし、軍法会議を事実上執行された方でございますので、現地の軍法会議の実情については一番経験が深いわけであります。実際にみずから軍法会議を行なわれたその体験について、ひとつ率直な経験ないし今日の御心境等をお聞かせ願えますれば幸いと思います。
私はそういうブーゲンビルの状態、わが日本国内における状態、そういう状態を冷静に考えていただいたら、私はこの際厚生大臣が先頭になって吉池軍曹の問題などは取り上げて天下にその罪を謝し、あわせて法務大臣等に法体系がどうあろうとももっとひとつ高度な立場に立って、こういう軍刑法でやられた人たちを全部その判決をないものにしてくれ、あなたが私にかわって先頭に立って閣議の中で主張しなければならぬ立場じゃありませんか
私の時間も相迫ってまいりましたから、まだ問題の追及として厚生大臣に私はひとつ別の角度からお伺いしますが、私は二月二十七日に吉池軍曹事件に関連をいたしまして、吉池君が処刑されたというならば、されたというその証拠書類を全部提出をしていただきたいという要望を厚生省に強くいたしておきましたにもかかわらず、一通も提出をちょうだいいたしておりません。
吉池軍曹の問題でもこれは非常な疑問がある。しかし、これは衆議院でやられておりますからこれはここでやりません。また、その他にも食糧をさがしに行って、そうして部隊にはぐれたからこれは逃亡だと、武器を持っておったからこれは窃盗だと、こういうようなことでさばかれてまだ泣いている人がおるわけなんです。
だから、吉池軍曹の場合でも、なんにもなかった。証拠がないですね。敵前逃亡だから殺したんだと、こういうことで罪名を着せられておる。そのほかに、食糧調達に行って帰ってみたら部隊が移動しておって、部隊に追いつかなかった、敵前逃亡だと。そうして、武器を持っておったので、これは窃盗罪だと、こういうことでやられておるけれども、何も証拠がないわけなんです。
これは吉池軍曹の事件でございますが、昭和二十年の八月十二日であります。ブーゲンビル島のムグアイで敵前党与逃亡罪で死刑の処刑を受けたという問題でございますが、これに対して未亡人の吉池きよ子さんが遺族年金、弔慰金の請求をした。これに対して厚生省はきよ子さんの請求を却下した。いろいろの経緯を経て、この問題が、昭和四十五年の八月参議院で取り上げられた。
○齋藤国務大臣 吉池軍曹の事件は非常に古い事件でございます。ただいまお述べになりましたように、昭和二十七年に奥さんのほうから遺族年金及び弔慰金の請求が出まして、私のおとうさんは公務死でありますから遺族年金、弔慰金の請求を認めてもらいたいという請求が出ました。
次に言いますが、吉池軍曹が所属をした旧第十七軍の歩兵第二十三連隊長、これは福田さんという人です。はじめ同連隊の生き残りの戦友が、昭和四十一年四月厚生省に、吉池軍曹の死亡事実更改に関する証明書というものを出している。私は直属の連隊長です、戦友です、吉池君が処刑をされた事実はございませんでしたという証明書を厚生省にお送りいたしております。その書類を参考までにここへひとつ御提出をいただきたい。
この人が戦場でとにかく死んだということで、昭和二十一年八月に遺家族の妻きよに対して、長野地方世話部長の名で吉池軍曹は昭和二十年八月十二日ブーゲンビル島ムグアイにおいて平病死した旨の公報が入ったのであります。平病死なんというものはわれわれしろうとにはちょっとわかりません。そこで遺家族は、昭和二十七年十二月六日、援護法による年金と弔慰金の申請を厚生大臣に向かって提出したのであります。
それと同時に、事この吉池さんの問題については、たとえばこの新聞を読んでみますが、「ブーゲンビル島での軍法会議関係の書類いっさいを引継いだはずの福岡第一復員地方裁判所検事局(現在福岡地方検察庁)に、吉池軍曹に関する裁判書類だけが全くない」、吉池軍曹に関する裁判書類だけが全くないというのです。ほかのはあるということです。こうあるのです。